何年もお教室を開催していると、
生徒さんも色々なお目的で通われている方がいる事に気がつきます。
その中で大きく分けて二つ、まずお教室に通う目的として、
絵を「習う」意識で通われる方と、その一方で絵は自由だと、
絵心を発露して「楽しく自由に描く」方がいらっしゃいます。
つまり、お教室なんだからしっかり手取り足取り絵の具の配分、
先生と同じ色の名前一つ、厳しくこうあって添削?みたいにして欲しいとお話しする方や、
一人一人感じ方は自由だから、色一つとってみても、
枠にはめないで基本さえしっかり教えてもらって、
自由に導いてほしいという方がいらっしゃるのです。
これは絵というモノの中には、
魂や表現は自由であるというコトが叫ばれる一方で、
絵は習う/修練という正反対の内容が奇しくも同居しているからかと感じます。
そこで一つ、学画と質画ついてお話ししたいと思います。
この、ふだん耳慣れない言葉は
室町時代から江戸時代までの永きに存在した御用絵師集団の狩野派と呼ばれる一派の
教えにみられる考え方です。
当時の日本において画家は、将軍につかえる職人に近い位置づけとして存在している事が多く、
その中でも狩野派は超一流の集団として君臨していた絵師達でした。
大量にクオリティの高い作品を要求された狩野派は、何より学画を尊びました。
つまり芸術家といった個人の自由な側面よりも、超一流の職人集団といった御用絵師としての、
立ち位置や歴史的背景等が起因している様に推測出来ます。
(そしてその後円山応挙などの「写生派」と呼ばれるジャンルが出てくるのです)
一方で巧みの技を持ちながら、
超一流の職人集団に収まりきらない質画を描いた絵師達は、
後に浮世絵師等になっていったという一説もあるようです。
(そしてその浮世絵が海を渡り、西洋で大きな影響を与えるのです。)
誤解を恐れずにあえていうならば、
質画は「おしえられない、生まれついての表現としての絵のありかた」
学画は「学んで習って身につけた絵のありかた」であり、
その二つの画と共にある三つ目の画、
真画は「心の眼で姿形以上の霊気までを描く絵のあり方」
であるようです。
真画については後ほど触れるとして、この考え方をふまえた上で、
現代に生きる今の自分が絵を描く上で、どのような形で絵を表現し残していきたいのかと
考えてみると整理が出来て良い様に思います。
どちらも必要であるけれども、
学画により過ぎれば、上手いけれど個性の無い、
誰が描いたかわからない絵心のない作品になってしまうし、
質画により過ぎれば、写実に描いたはずのモノでも世の中の理を無視して
相手に伝わらない場合も出てきてしまう様に感じます。
職人の枠だけでなく、芸術として地位を得た現代の絵描きの端くれとして、
今の自分にはどちらが必要で、何が足りないのかを冷静に判断し、
あまりどちらかに偏りすぎず、バランスをとりながら職人狩野派の考えの中でも三つめの画、
「真画」を描くコトに意識を向ける事が大切かと感じます。
その際に、あまりに大きい紙等は全部広げてしまうと周りの迷惑になるので、
折り畳んで描いていく場合があります。
その光景を見ている現地にいる周りの方からは、
そんな風に折り畳んで全部見えなくて描いていて絵が破綻しないのですか?
とよく聞かれる事もあるのですが、
凄く小さく折り畳む訳ではないし、前日に焼き付いてるので多くの場合大丈夫なのです。
そして一番、一目惚れした所から真っ白い紙にぐいっとペンを入れて描く瞬間は、
ものすごい緊張と勇気が必要なのですが一番胸がときめく瞬間です。
背筋がぞくぞくして、そして始まったらコツコツと1歩1歩描いていきます。
心境として、まるで登山前にあまりにも大きな存在を見上げる様な心で、
膨大な情報量を前に自分個人では正直途方にくれてたりして(桜の花の多さといったら!)
はやる気持ちを押さえる為に心の中で、
「ていねいに。ていねいに。」と何度も繰り返しつぶやきます。
そしてお相手に全て委ねてしまうのです。
そして暫く描いていると、
突然くだらない話や誰がああ言ってたとか、不思議な物語とか、
本当にその場の絵には関係ないだろうイメージが沢山去来してきて、
そのイメージとともに湧き上げる感情もあったりするのですが、
そのわき上がった感情につられて怒ったり、悲しくなったり引きずられて、
その関係ないイメージに入り込んでなんだろう?なんて考えてしまうと、
その後全く集中できないので、
経験的な解決策としてはイメージがわき上がったら、
まるでそのイメージを頭の中で勝手についてるテレビの光景の様に
突き放して眺める様にすると
(感覚としては眺めても「へー、そうなんだー」的な感じですが)
次の集中の段階に行けて良いようです。
その時にそのイメージのテレビを見て、感情がわき上がって悲しくなったり怒ったりしてても、
(外から変な人と思われない様にあくまで内面の葛藤のお話です。。。)
感情が流れるにまかせて、止めようともせず垂れ流しておきます。
自然体といいますか、たれるにまかせて(爆)委ねてしまうと、
今度は外の音が聞こえなくなってるコトに気づきます。
そして例えば巨木がお相手なら、
巨木の前で必ず数時間(目安です)心を通わせる時間を作ります。
あくまでイメージですが、
この時は普段シャットしてる自分の感覚を
完全開放してお相手の物語を聞く様な感覚で真摯に向き合います。
次に白紙を広げ(およそ50号サイズだと私の体は完全に隠れてしまうけど)
その中にお相手を焼き付けていく様な気持ちで、
(私の中では目からレーザーが出てるイメージなんですが)
残像が見えるくらいまで自分が見えたモノを焼き付けておきます。
この作業を描く前日に予め行っておきます。
基本下書きをしないやり方なので、この作業はとても大切です。
この作業まで終わったらロケハンは一応終了です。
この作業が終わらない場合は、納得いくまで時間をかけて行います。
そして日暮れとともに宿へ帰り、
宿でも白紙を前にイメージングして早めに寝ます。
そして夜があける前のうす暗い内か早朝に現地へ出発するのです。
(宿の朝食の時間によって動きに若干の変更があります)
この場を持ちまして、
展覧会をご覧頂いた、ご足労頂いた全ての方に、
改めて私自身より感謝と愛を送らせて頂きます。
ありがとうございます。
皆様のお陰で無事に終わる事ができました。
また、今回は普段は接する事は無い
展示した方のご家族の方にも複数お会いし、
色々とお話する機会を頂きました。
その中には深刻なご病気を現在も抱えていらっしゃる方もいて、
普段はなかなか外に長時間行く自体、勇気も機会も無いのですが、
現場描きが基本の、この線で描くスケッチを始められてから、
私や絵の仲間と共に外に出て、美しい風景や日の光を感じながら、
現場で絵をただ描く事で以前よりも元気になったり、
あそこもいつか描きに行ってみたいなぁと夢を持つ様になり、
一生懸命運動をしたりして体力をつけようと
希望をもって日々を送ったりしているお話や、
不思議と少し無茶をしているはずなのに、
次の検査で悪くならない事もあったりと
絵を描く事で明るい希望が生まれたお話を伺いました。
また定年退職をなさった方の中には、
「絵を描く」という目的を持った事で、
一人で自由に旅に出る事が出来る様になったり、
その描いた絵を仲間に見せる事が楽しいし、
絵を描く事で人生に楽しみが出来たとお話してくださいました。
こういったお話をいくつもいくつも伺い、喜ぶ顔を拝見すると、
絵を上手下手に描くとかの以前に、もっと原始的な、
純粋に自分の魂を開放する手段としての絵の力に
気づかされたのでした。
文章は読んでもらわなければ伝わらないけど、
絵は万国共通言葉不要のエネルギーです。
自らの魂の開放としての絵を優劣関係なく堂々と発表する事で
自分自身を何より肯定する事になるのではないかと思いました。
私という人間は小さく、ただ絵をずっと描いてきただけで、
師から習った自分の長年描いて来たそのやり方を
人に一所懸命お伝えする事だけだと思って来たのですが、
その私の小さな活動は、本当に本当にささやかだけれど、
誰かの役にたったり、世の中に還元出来ているのかもしれないとふと思い、
仮にそうならば本当に本当に嬉しい事だと胸が熱く、正直涙が出ました。
今回の事を通じて、今の私に出来る事は、
芸術とか絵とかいうとなんか敷居高そうだけど、
永沢さんに教えて頂いたスケッチという
誰でも気軽に入れる広い間口で、
あまねくひろく絵を描く楽しさを
多くの人に伝えていく事ではないのかと思いました。
そして私自身は伝える立場として、
今後も一層の精進と修行が必要だし、
何より私自身が絵を描く事を楽しむ事が
重要なんだと気づきました。
hpご覧の皆様、
是からもよろしく暖かく見守って頂けたらと思います。
理由として、誰でも誰かにわざわざ言われなくても、
自分の欠点については誰よりも心底で気づいて、自分自身を否定しているものですが、
自分を肯定する事実は欠点を探すより、一人ではとても難しいものだからです。
何故なら人は、自分以外の自分の何かしらを評価する人に出会って初めて、
自分に自信を持ち、肯定し、本来の才能を伸ばして行くのではないでしょうか?
逆にいうと、認める人間が周りに一人でも居なければ、
つぶされていく人もいるのではないかと思います。
もし今、あなたの周りであなたを認めない人間ばかりだとしたら、
それは自分の才能がないのではなく、
まだ出会うべく人に出会ってないだけかもしれないという事です。
絵を描いていて訪れる厳しい現実に直面すると、多くの場合行き詰まる時がやってきます。
でもそれは今の自分自身が「絵」に期待をするから行き詰まるのです。
しかし、絵を描く事を許されている自分に、
絵が、人生が、自分に対する期待を捨てないはずだと強く仮定して、
絵を描き続けた未来の先には、自分を必要する何かや、誰かがいるはずだと、
絵が逆に、自分に何を期待しているかを、未来に想像してみるのです。
絵が投げかける問いかけに、今自分は自分に向けてイエスと言えなくても、
まっずぐ向き合って、人生をかけて自分だけの答えをみつけようと生き抜けば、
いつか絵の方から自分に対してイエスといってくれる日がくると思うのです。
全ての強い表現の根源には必ず「痛み」があると感じます。
素晴らしい、究極とよばれるモノには、
喜びにも悲しみにも胸が張り裂ける様な痛みが必ずともないます。
何かに痛みを感じ、引き受け、見つめ、味わったその瞬間から、
それをどんなカタチにせよ外へ表現しようと決めた瞬間から、
誰でも芸術家になる資格があるのだと感じます。
つまり絵描きだとか歌手だとかは一種の方法論であり、
通常人が流して忘れてしまう些細な事に痛みを感じながら
正気を保って自分の痛みを表現し続けようという姿勢が
何より大切だと感じるのです。
つまり痛みとは、一種の感動とも刺激とも言い換えられる様なものだと思います。
そして本当の感動とはとても痛いものだと思うのです。
フラットな心からはもしかしたら優れた芸術は生まれ難いかもしれないし、
少し血がにじんでる様な痛んだ心の方が優れた表現が生まれる可能性があります。
喜び、悲しみ、悔しさ、怒り、恥ずかしさ、楽しさ。
マイナスでもプラスでも、
自分の心がとても痛む経験をした時は重要なチャンスで、
その痛みや同じ場所にいつまでも留まらずに、
傷んだ心と共にもっと大きな世界へ飛び出し、
自分の痛みを強く表現する「勇気」をもつ事が重要です。
しかし一方で、例えば誰かにいじめられ傷ついた場合に、
「○○にいじめられた」とただ現象を伝えたとしても、
心の痛みは正しく伝わらない場合が多いです。
胸の奥深く自分の痛みは宝物の様に大切にして、
その痛みで生まれた自分のエネルギーをカタチにする事、
それこそが表現だと思います。
「鮮やかさ」とは「生命の光」が、
色々なモノの中にきらりと光る瞬間の光景なのだと
私は夏の花を見る度思い出すのです。
秋に葉を落とし冬眠る前の、真剣でひたむきな一途な鮮やかさを
毎年夏に学びなおすのです。
もしかしたら絵でもいえる事かもしれませんが、
奇麗な色を塗りたいと絵の具で単純に鮮やで奇麗な色ばかり選び塗っても、
本質的に鮮やかな絵は描けないと感じます。
奇麗な色合いの薄っぺらい絵と鮮やかな絵の違いとは、
「鮮やかに生きようとする命」の輝きを表現する為に最適な色を、
意識して選ぶ事が一番重要だと思うからです。
以前、
たった1週間程の入院で病室から出ない生活を体験したことがあり、
病室を移動する為に外づけの階段を使用する為、
ほんの2分程度の事でしたが、
外の非常階段の踊り場にでただけの時間に強烈な体験をしました。
扉を開けた瞬間の眩しい程の外の景色。色の洪水。
嗅いだ空気が大げさでなく、甘くてトロリと感じる程でした。
毎日窓から漏れる音や明かりで、
外の喧噪も朝や昼が来てる事も知っていたけれど、
こんなに鮮やかだったとは。。。
久しぶりの外の世界は目を開けていられないくらい鮮やかさの洪水。
視覚、聴覚、味覚、
この全てがたった数日の間に変わってしまった様でした。
それ以前は街の空気なんて、
排気ガスと多くの飲食店の匂いが混じって「うぇ」っと思っていただけで、
本当は空気って甘かったんだな、って
このざわりとした嫌だと思った匂いは生命の匂いだったと、
その時初めて識りました。
風はなんて複雑で素敵なんだろう。
無味無臭のはずの空気が甘くて、「うぇ」と思ってた
種々雑多の匂いが変に懐かしくて。
その後は、太陽の光が跳ねて、階下の大きな柿の木に茂る葉を
風にのってツヤツヤと踊りながら滑っていく光の粒まで見えた気がして。
2分間の間後には退院まで、素晴らしい外の景色は終わってしまったけど。
退院して暫くしたら、あの感覚も消えてしまったけど。
心が乾いた時にしみてくる景色は普通なんだとあの時体験させてもらいました。
あの時、一緒に移動した人達も口々に私と同様の体験を話していたので、
私独りだけの体験ではない様でした。
つまり「美」の本質の側面としては、
感じる心がその「普通」を美しいと思うか、煩く思うかの違いだけなんだと識り、
世界はいつも、もしかしたら完璧に美しいと、
生きている情景とは鮮やかなのだと、夏が来ると思い出します。
画家の堀文子さんは
本当に花の旬に出会うには十日間程しか無いと
以前テレビでお話ししていた。
花を本当に追いかけ始めたら
1年はあっという間しか無いのかもしれない。
本当に花を描きたければ、
花に心を近づけなければならないと私は考えます。
絵を描く前に私は、ひと呼吸置く事を大切にしているのは、
そのモノをこの未熟な瞳で只じっと観る様に努める為です。
出来るだけ自分の先入観や好き嫌いを外した所で、
そのモノをただ観つめていたい。
例えば一輪の花にも心が在るならば、
他の花を観るときは、どんな心で観るだろう?
霞草の近くに深紅の薔薇が咲いている中で、
霞草は自分の花びらを深紅に染めて対抗しよう
などと思わないのではないか。
ただその際立つ白さに誇りをもって、可憐に咲いている。
自分の有りのままの美を貫く。
薔薇は薔薇の鮮やかさと芳醇な香りで高貴な美を貫く。
その一つ一つの花の主張。存在の美しさ。命の美しさ。
「ただ在る事の美しさ」に心が震える瞬間。
野に出ると風に手折られて曲がったまま咲く花の姿。
その姿のまま美しく満開に咲いて、清い。
生きるって本来こういう姿なんだと力強い静かな姿。命の美しさ。
命そのものの姿、生命力の様なものを私は描いていきたい。
素晴らしい作品は技術はつたなくても、
吹きつけてくるような強いエネルギーを持っているからです。
エネルギーには色々有るけれど、
明るく強い正の強いエネルギーもあれば、
負の強いエネルギーを放った絵もあります。
しかし、たとえ負のエネルギーでも、
エネルギーが弱いよりずっといいと感じるのです。
では、
強いエネルギーがある絵を描くにはどうしたらいいだろう?
今の私が感じる事は、正負や常識にとらわれず、
今自分が抱いている気持ち、強い、信念にも似た思い、それを否定せず、
堂々と、でも冷静に、○○な絵を描く私で居たいとか、よけいな事を考えず、
今のありのままの自分で勝負する事かもしれないという事です。
絵描きはただ絵を描く人間であって、
基本的に、本質的には、それ以上それ以下でもないし、
その事以外は必要ないと思うからです。
迷う原因は大概自分以外の周りから齎される事が多い様に感じます。
どんなモノも迷ったらエネルギーは弱くなるし、
ブレたら弱くなるのです。
どんなに迷っていても絵を描いている時は、
「これでいいのだ」と「私は好きだから絵を描いているんだ」と思いながら、
真っ直ぐに向き合う事。
絵を描く事が苦しくても喜びでなくなったら、一番駄目だと感じます。
職人とは長い間に培った芸術にまで極めた技と知恵で
神業にも似た素晴らしい作品を量産できる事と仮定します。
(職人の技も芸術なのだが、
この場合は下記の芸術とはベクトルが違うとして)
では芸術とはオンリーワンの作品を創る為、
長い間培った感性と極めた技と知識で二度と誰にも創れない
一つの作品を創る事でしょうか。
だとしたら
芸術と職人の間に、
ゆれながら数多の「作品」が存在しているのかもしれない。
素晴らしい神業の作品は勿論価値があるし、
それしかないって唯一の価値も素晴らしいはず。
私は何を打ち出していきたいの?
絵を描いていて、浮かぶ想い。
例えばスケッチを素描で速写だとするならば、
スケッチを極めた先は神業の職人作品なのか?
サラサラとレベルの落ちない作品を大量に描くとか。
ではこのスケッチが芸術作品になるには?
速写や素描を究極写生にまで高め、一つの絵画主義として貫く事?
偶然に描いた結果ヘタウマのオリジナリティではなく、
狙って、この線を使い直接対象物に向い描く方法で、
一つの作品を創る事にじっくり時間を傾け、丁寧に、描くとか。
この問題の、今の所の私の見解は、
大切な事はただ、自分がどこに向いていたいかだと思います。
初めはその世界がいいなぁと思うきっかけ&あこがれを
模倣する事から始め、自分の気持ち&好みはおいて、
とりあえず文句いわずにただひたすら習い続けること。
見よう見まねで始めた物でも、
まるであこがれが描いているんじゃないかと思う位まで、
徹底的に模倣しつづけること。
そして長い年月取り組み続けるうちに
自分の中で、そのあこがれが重なったと感じたら、
次はそのあこがれを「破り」自分の世界を探し始める段階に移ること。
自分の中に今まで培ったものを「破る」行為は簡単にはいきません。
今まで自分がいた世界にはない多くの違った世界や経験が必要になるし、
習ってきた以上の多くの年月が必要になります。
此処から先に先生は居ません。自分で見つけていかなければいけません。
長い時間と修練をかけ、悩みながら「破って」「破って」いく内に
その中から模倣ではない「模倣の上にある本当の自分の姿」が見えてくるのです。
そうしたら最後は「離れる」こと。
長い間習い、身を置いた場所を離れるのは心理的につらいものです。
しかしいつまでも同じ仲間や世界にいたら、
そこには自分の居場所や、ある程度周りが認めた自分の存在がありますが、
新しい成長はありません。死んでいくだけです。
一人の人間に与えられた時間が24時間ならば、
今までその場所にかけていた同じ時間を新しい自分&場所に向う為につかうのです。
勇気を持って積極的に「離れていく」ことが大事です。
これを繰り返し螺旋の階段を上る様に道を極めて行くこと。
自分が今、どの段階にいて、もがいているのか、
人と比べた結果ではなく、
自分の中で冷静に今の自分の力量を正確に計れる人間が
最後に道を極められる様に感じます。
最近「絵」とは一つの「生き方」なのではないかと実感します。
つまり「良い絵」と「悪い絵」の判断は、
只一枚の絵、一つの結果がよいかわるいかで決まる単純なものではなく、
その四角い1枚の絵を飛び越えて、
向こう側の画き手である自分の「生き方」や「信念」「考え方」
つまり「自分自身が今どう生きているか」が重要なのではと感じます。
この「情熱の言葉」が多くの人に届きます様に。
あなたの中の最良のものを
人は不合理、非論理、利己的です
気にすることなく、人を愛しなさい
あなたが善を行うと、
利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう
気にすることなく、善を行いなさい
目的を達しようとするとき、
邪魔立てする人に出会うでしょう
気にすることなく、やり遂げなさい
善い行いをしても、
おそらく次の日には忘れられるでしょう
気にすることなく、し続けなさい
あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう
気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい
あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう
気にすることなく、作り続けなさい
助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう
気にすることなく、助け続けなさい
あなたの中の最良のものを、世に与えなさい
けり返されるかもしれません
でも気にすることなく、最良のものを世に与え続けなさい
あなたにもわかるはず、
結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。
あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです。
マザー・テレサ
]]>一般的に動植画というと、図鑑の絵とか
ボタニカルアートの世界を連想してしまいがちですが、
この方の作品を見ていると、
そういったジャンルを超えた新しい画風というか新天地を感じます。
「絵が好きで、動植物が好きでたまらなくて、近づきたくて描いている」
95歳のご高齢でいながら、そういった幼い頃の子供の様な自由さ、
純粋さというか好奇心を絵の中に感じずにはいられません。
小さい子供の頃は誰しも、昆虫は最初の身近で親しい遊び相手だったと思います。
しかしいつしか大人になると一部の人を除き、
友達であった昆虫は只の「虫」になり、
観察の気持ちは失われ、感動は失われるのです。
しかし熊田千佳慕さんは、95歳の今でも、
大人の表現力と幼い子供の好奇心・観察を兼ね備えた希有な人だと思います。
私はこの方の中に、画家としての一つの理想を見ました。
熊田千佳慕さんの著書↓
http://www.yurindo.co.jp/info/kumachika_world.html
若冲は狩野派の技をなす者について学んだ。
その画法に通じてしまい、ある日考えた。
「これは狩野派の絵だ。自分がこれに長じた所で
狩野派の絵画の範囲を超えるものではない。
これを捨てて宋・元の絵画を学んだ方がましだ。」
そこで宋画を学んだ。臨模すること一千点。また考えた。
「模写は人の後からついていく行為であり、
結局宋元の画人と肩を並べる事はできないのではないか。
それに彼らは物を描いているのだろう。
彼らが描くものを自分がまた描くのでは、
自分と物とはひとつの層を隔てていることになる。
それならば自分で直接物を描くほうがましだ。
物、物といっても自分は何を対象にしようか。
いまの時代に中国の故事人物は存在しない。
しかし日本の人物を描くのは堪えられない。
実際見る風景も絵にする程のものにそうぐうしたことがない。
やむなく、動物・植物ということになろうか。
孔雀・翡翠・鸚鵡・錦鶏鳥などはいつもみるわけにはいかない。
ただ鶏は村里にかわれているし、羽毛の色彩も美しい。
自分はこれから始めよう」と。
そうして鶏数十羽を庭に飼い、その形状を観察し、
写生すること数年を経た。
その後対象は、草木、鳥獣、虫魚の類におよび、
それらの形貌と神髄を極め尽くし、
心に思うままを手が描き出せるようになった。
(若冲居士寿蔵の喝銘より抜粋)
遠い江戸の時代、同じ様に絵の道に悩み、取り組み続けた若冲のこの言葉には、一つのヒントがある様に思います。
]]>今回の展覧会は、素晴らしい一流の日本の画家の動植物ばかりを集めた展示という事で非常に有意義な一時を過ごす事が出来ました。
やはり日本人の感性は非常に素晴らしい、と納得のいく絵画ばかりでした。
多くの優れた日本画は坂口安吾の陰影礼賛を彷彿とさせる様な、
絵を取り巻く「光と陰」さえも、
その絵をより良く見せる為の「演出」として計算されて描かれています。
例えば、
屏風の上段に柳が描かれているその中に、一羽の美しい鳥が描かれている
繊細でデザイン性の高い大変美しい絵がありました。
只観覧するだけでも美しいのに、
当時一般的な照明だったロウソクの明かりの下でもう一度その絵を見ると、
そのロウソクの瞬きの効果で、柳が揺れ鳥が飛び立ちそうな絵に変化するのです。
つまり絵がデザイン性を持ちながら「生きている」のです。
空間演出の巧み、そういう事を前提に描かれている絵が本当に多いのです。
次に注目するのは、日本人の四季に対する感性が生んだ
素晴らしい色彩感覚と線画の巧みさ。
当時の日本は「八百万の神」という様に動物や植物といった万物に対して
深い愛情の気持ちを持っていた様に思います。
鳥獣戯画の様に動物の世界が、巡る四季の中で
まるで人間の様に描かれていたり、表情も人間の様に暖かくユーモラスで、
身近でとても愛嬌を感じるのです。
その自由な世界観を美しい色彩と、
絵の道を何十年と極めた人間が描く迷いの無い「線」が描ききる事で、
表現しているのです。
今の時代に再び、
昔の日本人が描く「動植画」に
私達現代の日本人が注目する事は非常に大切だと考えます。